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【『ノモンハン : 見下ろす神、地を這う神』 第百十五回】 [ノモンハン考]

☆・・・ノモンハン事件70周年記念シンポジウムに参加していたと思われるマスコミ関係者がいたと思われる記事が、産経新聞に日をおかずに二つ掲載されたので転載しておく。

 いちお、

   <ノモンハン事件70周年記念シンポジウム「ノモンハン事件と国際情勢」報告・2>

 です。

   ◇

  《 【主張】ノモンハン70年 一方的な歴史解釈検証を (2009.9.16 03:22) 》

  日ソ両軍が旧満州国とモンゴルの国境線をめぐって激戦を繰り広げたノモンハン事件(昭和14年5~9月)の停戦協定から70年が経過した。
 この戦闘で、日本軍はソ連軍の機械化部隊に大敗したとされてきた。だが、ソ連崩壊後のロシアで旧ソ連軍の資料が公開され、ソ連側の死傷者が2万6000人と日本側の2万人を上回っていたことが明らかになった。
 また、最近の研究で、当時の日本政府が独ソ接近の情報を得ていながら、それを重視していなかったことも分かってきた。ノモンハン事件最中の1939年8月、独ソ不可侵条約が結ばれ、平沼騏一郎首相は「欧州情勢は複雑怪奇」と言って退陣した。
 日本の情報収集力や情勢判断の甘さについて、当時の国際情勢に照らし、再検証が必要である。
 ロシアのメドベージェフ大統領は先月、モンゴルの首都ウランバートルで行われたノモンハン事件の70周年行事で、「この勝利の本質を変える捏造(ねつぞう)は容認されない」と述べた。「ソ連は正しかった」とするスターリン史観の継続を強調した演説である。
 東京裁判で、ノモンハン事件は日本が計画した侵略的行為として裁かれた。だが、戦闘に備えて機械化部隊を東へ移し、周到に準備していたのは、むしろソ連だ。同じ時期、ソ連はドイツとも東欧・バルト諸国の勢力圏分割を約した秘密協定を結んでいる。モンゴルでも血の粛清を行った。アジアでも欧州でも、ソ連は「解放者」ではなかったのである。
 ソ連は終戦間際、日ソ中立条約を破って満州に侵入し、関東軍将兵ら約60万人をシベリアなどに連行し、約6万人が強制労働で死亡した。日本固有の領土である北方四島を今も不法に占拠し続けている事実も忘れてはならない。
 プーチン首相が主導するメドベージェフ政権は、エリツィン時代の4島を明記した「東京宣言」(1993年)を反故(ほご)にし、平和条約締結後に歯舞、色丹の2島を日本側に引き渡すとした「日ソ共同宣言」(1956年)を基礎に交渉しようとしている。
 日ソ共同宣言が署名された当時の首相は、新政権を担う鳩山由紀夫氏の祖父、鳩山一郎氏だ。ロシアが2島返還を持ちかけてくる可能性があり、要注意だ。鳩山新政権は4島返還の原則を絶対に曲げてはならない。

   ◇

 青字に変えてある部分を読んで、私は、「あっ、シンポジウムに参加していたな」と思った。

 で、昨日の産経で、どうやら産経の論説委員・石川水穂氏が報道席に座っていたらしいことが分かった。

 あのキダ・タロー似が石川氏か?^^;

   ◇

  《 【土・日曜日に書く】論説委員・石川水穂 独ソ接近に鈍感だった日本(2009.9.19 03:20) 》

 ≪ノモンハン70年≫
 今月11日、東京・四谷の上智大学講堂で、ノモンハン事件70周年のシンポジウムが開かれた。ノモンハン事件は昭和14(1939)年5月から9月にかけ、日ソ両軍が旧満州国とモンゴルの国境線をめぐって激戦を繰り広げた戦闘である。同じころ、欧州では、独ソ不可侵条約が結ばれ、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が始まった。
 シンポジウムでは、当時の日本が欧州情勢をどう見ていたかについて、貴重な発表が行われた。
 通産省OBで企業活力研究所理事長の土居征夫氏は、駐ソ大使館付武官だった父、土居明夫氏が昭和14年6月、モスクワからシベリア鉄道で一時帰国する途中、ソ連の機械化兵団が東へ送られる状況をつぶさに観察していた事実を報告した。しかし、土居明夫氏がこれを新京(長春)で関東軍司令部に伝えたところ、関東軍参謀から無視された。東京でも、参謀本部や陸軍省に報告したが、反応は鈍かったという。
 国際日本文化研究センターの戸部良一教授は、当時の情報収集について研究発表を行った。イタリアの白鳥敏夫大使は昭和14年4月20日、ベルリンのヒトラー生誕50周年記念式典に招かれ、ドイツのリッベントロップ外相から独ソ提携の可能性を示唆された。白鳥大使はこれを東京の外務省に打電した。同年6月から7月にかけ、駐独大使館付海軍武官からも、独ソ接近情報が入ってきたが、いずれの情報も重視されなかった。
 ノモンハン事件の最中の同年8月下旬、独ソ不可侵条約の調印を知らされた平沼騏一郎首相が「欧州情勢は複雑怪奇」と言って退陣したことは、よく知られている。日本政府の情勢判断の甘さを物語っている。
 当時の日本はドイツと防共協定を結び、これにイタリアを加えた日独伊三国同盟の締結を目指していた。反共国家のドイツが共産国のソ連と手を結ぶはずがないという固定観念にとらわれていたといわれる。その間、ソ連はドイツとの不可侵条約締結の見通しをつけつつ、着々と機械化部隊を東へ移動させていたのだ。
 ≪善戦した日本軍≫
 政府や軍上層部の甘い見通しにもかかわらず、ノモンハンの日本軍は、機動力と火力で勝るソ連軍に対し、善戦敢闘した。
 当初、ノモンハンに派遣された23師団(小松原道太郎中将)は、夜襲や火炎ビンを使った肉迫攻撃などで、ソ連の機械化部隊に応戦した。しかし、8月20日から開始されたソ連軍の大攻勢により、壊滅的な損害を受けた。その後の戦闘で、日本軍が反撃に成功した事実は、あまり知られていない。
 現代史家、秦郁彦氏の研究によれば、8月末、ノモンハンに急派された第2師団の歩兵16連隊(宮崎繁三郎大佐)は夜襲攻撃で997高地をソ連軍から奪取した。また、独立守備歩兵第16大隊(深野時之助中佐)は白兵戦で1031高地を奪っている。
 こうした終盤戦の勝利は、停戦協定(9月16日)以降の国境線画定にも影響を与え、日本軍が苦戦したハルハ・ホルステイン河流域についてはソ連側の主張が通ったものの、宮崎部隊などが奪った南側の地域は日本側が主張する線で国境線が引かれたという。
 ノモンハン事件について、最近までは、日本軍がソ連の機械化部隊に惨敗したとされてきたが、ソ連崩壊後のロシアから旧ソ連軍の資料が公開され、死傷者はソ連側が2万6000人と日本側の2万人を上回っていたことが明らかになった。秦氏は「航空戦や戦車戦なども含め、日ソ両軍の戦いは引き分けに近い」とみている。
 ≪ソ連が歴史を捏造≫
 シンポジウムでは、ソ連がモンゴルで行った粛清の実態も報告された。最近、秘密解除された資料などによると、1937年から39年にかけ、チベット仏教のラマ僧を含め2万人を超すモンゴル人が反革命罪や日本へのスパイ容疑で処刑されたといわれる。
 同じころ、ソ連は欧州でもドイツとポーランド分割の秘密協定を結び、1940年、カティンの森などでポーランド軍将校ら2万5000人を集団処刑している。
 ロシアのメドベージェフ大統領は先月、モンゴルで行われたノモンハン事件70周年行事で、「この勝利の本質を変える捏造(ねつぞう)は容認されない」と述べた。だが、歴史を捏造していたのは、ソ連である。ソ連はアジアでも欧州でも「解放者」ではなかった。
 今年も、ノモンハン事件の参戦者や遺族らによる「ノモンハン事件現地慰霊之会」(永井正会長)が9月上旬、ノモンハンを訪れ、21回目の慰霊法要を行った。ノモンハン事件の教訓を学び、戦死者を慰霊する気持ちを忘れてはならない。(いしかわ みずほ)

   ◇

 さすが、うまくまとめてくれています^^

                                                           (2009/09/20)
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MUTI

お久しぶりです。
以下は、名古屋大学で教えておられる方の記事です。

http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000667.html#more
http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000668.html
http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000669.html

by MUTI (2009-12-01 19:05) 

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