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【『ノモンハン : 見下ろす神、地を這う神』 第百十六回】 [ノモンハン考] [ノモンハン考]

☆・・・『ノモンハン:71年前の記録・6月 ③』

 しばらく更新がなくてすいませんでした。

 頑張るのみです^^

 今回も、『ノモンハン美談録』より。

 実は、モンゴルに詳しい田中克彦一橋大学名誉教授の近著の『ノモンハン戦争―モンゴルと満洲国 (岩波新書)』だが、それまで語りもしなかった、この『ノモンハン美談録』の批判をしてるんだよなあ。

 答えは簡単、田中氏はここを読んでいて、ここを潰しておきたいと思ったのだろう^^;

 皆さん、どうか待ってください。

 『ノモンハン戦争―モンゴルと満洲国 (岩波新書)』については、文学的に徹底的に批判しますから^^

     *     *

   ◇六月二十八日

 騎兵、歩兵、器械化部隊の混成約一千はハルハ河左岸のノロ高地、バルシャガル高地に越境、戦車部隊はわが部隊附近に出没したるも、わが部隊敵を漸次後方に圧迫す。

   ◇六月二十九日

 ノムトソーリン東南方約十五粁の地點に歩騎約一千、野砲、山砲数門、戦車約二十二両掩護の下に進撃し来る。わが方山砲、機関銃隊を以て交戦し、数時間の後、敵に多大の損害を興へこれを撃退す。

   ◇六月三十日

 機械化部隊及び歩騎聯合の部隊を陸続不法越境せしめ、バルシャガル及びノロ高地附近に塹壕を構築、二百粁の戦線に四千の大軍を配備、ハルハ河の渡河點一帯に堅固な砲兵陣地を構築。
 敵空軍は二十七日の大空中戦に徹底的大打撃を受けてより機影を現さざりしも午後に至り甘珠爾廟及び将軍廟上空に五機編隊のи十五型機襲来、直ちに国境線外に駆逐さる。

     *     *

 さて、こちらの再開の機を窺っていたら、最近、中古おもちゃ屋さんで、以下のプラモデルをゲットした。

 そのパッケージを見ていたら、ふつふつと、更新意欲が燃え上がってきたのだ。

     dvc00317[1] (2).jpg
          ノモンハンでも活躍しましたよ!

 こんな風に、こちらを作成する準備も出来ています^^

     dvc00318[1] (2).jpg
          懐かしきタミヤカラー!!!

 頑張りますよ!!!^^v

                                                                     (2010/05/22)

【『ノモンハン : 見下ろす神、地を這う神』 第百十五回】 [ノモンハン考]

☆・・・ノモンハン事件70周年記念シンポジウムに参加していたと思われるマスコミ関係者がいたと思われる記事が、産経新聞に日をおかずに二つ掲載されたので転載しておく。

 いちお、

   <ノモンハン事件70周年記念シンポジウム「ノモンハン事件と国際情勢」報告・2>

 です。

   ◇

  《 【主張】ノモンハン70年 一方的な歴史解釈検証を (2009.9.16 03:22) 》

  日ソ両軍が旧満州国とモンゴルの国境線をめぐって激戦を繰り広げたノモンハン事件(昭和14年5~9月)の停戦協定から70年が経過した。
 この戦闘で、日本軍はソ連軍の機械化部隊に大敗したとされてきた。だが、ソ連崩壊後のロシアで旧ソ連軍の資料が公開され、ソ連側の死傷者が2万6000人と日本側の2万人を上回っていたことが明らかになった。
 また、最近の研究で、当時の日本政府が独ソ接近の情報を得ていながら、それを重視していなかったことも分かってきた。ノモンハン事件最中の1939年8月、独ソ不可侵条約が結ばれ、平沼騏一郎首相は「欧州情勢は複雑怪奇」と言って退陣した。
 日本の情報収集力や情勢判断の甘さについて、当時の国際情勢に照らし、再検証が必要である。
 ロシアのメドベージェフ大統領は先月、モンゴルの首都ウランバートルで行われたノモンハン事件の70周年行事で、「この勝利の本質を変える捏造(ねつぞう)は容認されない」と述べた。「ソ連は正しかった」とするスターリン史観の継続を強調した演説である。
 東京裁判で、ノモンハン事件は日本が計画した侵略的行為として裁かれた。だが、戦闘に備えて機械化部隊を東へ移し、周到に準備していたのは、むしろソ連だ。同じ時期、ソ連はドイツとも東欧・バルト諸国の勢力圏分割を約した秘密協定を結んでいる。モンゴルでも血の粛清を行った。アジアでも欧州でも、ソ連は「解放者」ではなかったのである。
 ソ連は終戦間際、日ソ中立条約を破って満州に侵入し、関東軍将兵ら約60万人をシベリアなどに連行し、約6万人が強制労働で死亡した。日本固有の領土である北方四島を今も不法に占拠し続けている事実も忘れてはならない。
 プーチン首相が主導するメドベージェフ政権は、エリツィン時代の4島を明記した「東京宣言」(1993年)を反故(ほご)にし、平和条約締結後に歯舞、色丹の2島を日本側に引き渡すとした「日ソ共同宣言」(1956年)を基礎に交渉しようとしている。
 日ソ共同宣言が署名された当時の首相は、新政権を担う鳩山由紀夫氏の祖父、鳩山一郎氏だ。ロシアが2島返還を持ちかけてくる可能性があり、要注意だ。鳩山新政権は4島返還の原則を絶対に曲げてはならない。

   ◇

 青字に変えてある部分を読んで、私は、「あっ、シンポジウムに参加していたな」と思った。

 で、昨日の産経で、どうやら産経の論説委員・石川水穂氏が報道席に座っていたらしいことが分かった。

 あのキダ・タロー似が石川氏か?^^;

   ◇

  《 【土・日曜日に書く】論説委員・石川水穂 独ソ接近に鈍感だった日本(2009.9.19 03:20) 》

 ≪ノモンハン70年≫
 今月11日、東京・四谷の上智大学講堂で、ノモンハン事件70周年のシンポジウムが開かれた。ノモンハン事件は昭和14(1939)年5月から9月にかけ、日ソ両軍が旧満州国とモンゴルの国境線をめぐって激戦を繰り広げた戦闘である。同じころ、欧州では、独ソ不可侵条約が結ばれ、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が始まった。
 シンポジウムでは、当時の日本が欧州情勢をどう見ていたかについて、貴重な発表が行われた。
 通産省OBで企業活力研究所理事長の土居征夫氏は、駐ソ大使館付武官だった父、土居明夫氏が昭和14年6月、モスクワからシベリア鉄道で一時帰国する途中、ソ連の機械化兵団が東へ送られる状況をつぶさに観察していた事実を報告した。しかし、土居明夫氏がこれを新京(長春)で関東軍司令部に伝えたところ、関東軍参謀から無視された。東京でも、参謀本部や陸軍省に報告したが、反応は鈍かったという。
 国際日本文化研究センターの戸部良一教授は、当時の情報収集について研究発表を行った。イタリアの白鳥敏夫大使は昭和14年4月20日、ベルリンのヒトラー生誕50周年記念式典に招かれ、ドイツのリッベントロップ外相から独ソ提携の可能性を示唆された。白鳥大使はこれを東京の外務省に打電した。同年6月から7月にかけ、駐独大使館付海軍武官からも、独ソ接近情報が入ってきたが、いずれの情報も重視されなかった。
 ノモンハン事件の最中の同年8月下旬、独ソ不可侵条約の調印を知らされた平沼騏一郎首相が「欧州情勢は複雑怪奇」と言って退陣したことは、よく知られている。日本政府の情勢判断の甘さを物語っている。
 当時の日本はドイツと防共協定を結び、これにイタリアを加えた日独伊三国同盟の締結を目指していた。反共国家のドイツが共産国のソ連と手を結ぶはずがないという固定観念にとらわれていたといわれる。その間、ソ連はドイツとの不可侵条約締結の見通しをつけつつ、着々と機械化部隊を東へ移動させていたのだ。
 ≪善戦した日本軍≫
 政府や軍上層部の甘い見通しにもかかわらず、ノモンハンの日本軍は、機動力と火力で勝るソ連軍に対し、善戦敢闘した。
 当初、ノモンハンに派遣された23師団(小松原道太郎中将)は、夜襲や火炎ビンを使った肉迫攻撃などで、ソ連の機械化部隊に応戦した。しかし、8月20日から開始されたソ連軍の大攻勢により、壊滅的な損害を受けた。その後の戦闘で、日本軍が反撃に成功した事実は、あまり知られていない。
 現代史家、秦郁彦氏の研究によれば、8月末、ノモンハンに急派された第2師団の歩兵16連隊(宮崎繁三郎大佐)は夜襲攻撃で997高地をソ連軍から奪取した。また、独立守備歩兵第16大隊(深野時之助中佐)は白兵戦で1031高地を奪っている。
 こうした終盤戦の勝利は、停戦協定(9月16日)以降の国境線画定にも影響を与え、日本軍が苦戦したハルハ・ホルステイン河流域についてはソ連側の主張が通ったものの、宮崎部隊などが奪った南側の地域は日本側が主張する線で国境線が引かれたという。
 ノモンハン事件について、最近までは、日本軍がソ連の機械化部隊に惨敗したとされてきたが、ソ連崩壊後のロシアから旧ソ連軍の資料が公開され、死傷者はソ連側が2万6000人と日本側の2万人を上回っていたことが明らかになった。秦氏は「航空戦や戦車戦なども含め、日ソ両軍の戦いは引き分けに近い」とみている。
 ≪ソ連が歴史を捏造≫
 シンポジウムでは、ソ連がモンゴルで行った粛清の実態も報告された。最近、秘密解除された資料などによると、1937年から39年にかけ、チベット仏教のラマ僧を含め2万人を超すモンゴル人が反革命罪や日本へのスパイ容疑で処刑されたといわれる。
 同じころ、ソ連は欧州でもドイツとポーランド分割の秘密協定を結び、1940年、カティンの森などでポーランド軍将校ら2万5000人を集団処刑している。
 ロシアのメドベージェフ大統領は先月、モンゴルで行われたノモンハン事件70周年行事で、「この勝利の本質を変える捏造(ねつぞう)は容認されない」と述べた。だが、歴史を捏造していたのは、ソ連である。ソ連はアジアでも欧州でも「解放者」ではなかった。
 今年も、ノモンハン事件の参戦者や遺族らによる「ノモンハン事件現地慰霊之会」(永井正会長)が9月上旬、ノモンハンを訪れ、21回目の慰霊法要を行った。ノモンハン事件の教訓を学び、戦死者を慰霊する気持ちを忘れてはならない。(いしかわ みずほ)

   ◇

 さすが、うまくまとめてくれています^^

                                                           (2009/09/20)

【『ノモンハン : 見下ろす神、地を這う神』 第百十四回】 [ノモンハン考]

                   シンポジウム.jpg

☆今回、9月11日に催された、<ノモンハン事件70周年記念シンポジウム「ノモンハン事件と国際情勢」>に参加し、多くの識者の最新研究を拝聴した。

 ・・・と言いたいのだが、正直、あまり驚嘆すべき情報は得られなかった。

 ノモンハン事件の背景となる国際情勢について語る集まりであったわけだが、その基礎的な枠組みが、半藤一利が『ノモンハンの夏』で描いた内容から離れることはなかった。

 私は、現在、『ノモンハンの夏』で示されたノモンハン事件の背後の状況については、特に批判すべき情報は持っていないので、それを踏襲した各発言者の内容から、激しい驚きを受けることはなかった。

 尤も、幾つかの具体例に「へーっ!」とはさせられた。

   ◇

 <シンポジウム「ノモンハン事件と国際情勢」 ご案内>
                       主催:軍事史学会・特例財団法人偕行社・近現代史研究会

 1 シンポジウムの目的
 ① 偕行社の近現代史研究会では、新史料に基づいて、近現代史についての見直しを地道に続けていますが、その成果を広く会員及び近現代史に関心のある国民に伝えることを目的として研究を進めています。
 ② 今年は、ノモンハン事件発生70周年の記念すべき年であり、更に、ソ連崩壊後の新史料の発掘もあり、同事件の歪曲された部分を解明するチャンスであります。その意味からノモンハン事件の真相に迫る良き機会と考え企画いたしました。

 2 テ―マ: 「ノモンハン事件と国際情勢」
 3 時 期:2009.9.11(金)13:00~17:00
 4 場 所:上智大学
     (四谷キャンパス10号館講堂)
 5 実施日程
   13:00  ●開会の辞 進行司会者
   13:00~13:10 ●開会挨拶
                          ・ 特例財団法人偕行社会長 軍事史学会副会長
   13:10~13:30 ●基調報告 「ノモンハン事件の見方」
                          ・ 中山隆志氏 (偕行社近現代史研究会委員長)
   13:30~13:50 ● 現地報告 「ノモンハン現地の状況」
                          ・ 瀧山 和氏 (ノモンハン空戦経験者・陸士49期元陸軍少佐)
            (休憩:20分間)
   14:10~14:20 ●シンポジウム司会者挨拶
                          ・ 杉之尾宜生(孫子経営塾代表)
   14:20~15:50 ●パネリスト報告(各パネリスト:25分)
                          ・ 菅沼光弘氏「リュシコフ大将亡命の影響」 (国士舘大学講師、元公安調査庁調査部長)
                          ・ 土居征夫氏「陸軍の対ソ情報活動」 (元通産省生活産業局長、企業活力研究所理事長)
                          ・ 戸部良一氏「ノモンハン事件前後の外交情勢」 (国際日本文化研究センター教授、軍事史学会副会長)
             (休憩:10分間)
   16:00~17:00 ●パネリスト報告のまとめ及び問題提起(同司会者)
                          ・ フロアからの質問に対するパネリストの応答
   17:00 ●閉会の辞 進行司会者
          *当日は、参加費として1000円を申し受けます。
          *参加申込は、偕行社事務局へ(TEL03‐3263-0851・FAX03‐3263‐0852)
                 担当:松田純清(メール:kaikoinfo@mild.ocn.ne.jp)

   ◇

 その内容については、次回から書いていきたい。

 ただ、招待客の中に、田中克彦氏がいたそうだ。

 田中克彦氏は、このブログでも度々名前が出てくる方で、社会言語学者でモンゴルに造詣が深く、モンゴル研究の一環だったのだろう、ノモンハン事件にも詳しく、その、日本での第一人者とも言える人物だ。

 最初は、私がここで書く内容の、ソース提供者の一人として、その著書を引用させてもらっていたのだが、次第に、その主張を形成する思想の偏向が気になり始め、批判をせざるも得なくなった。

 そして、この日、私は、田中克彦氏の新刊『ノモンハン戦争-モンゴルと満洲国(岩波新書 2009年)』を購入し、読みながらシンポジウム会場に向かっていて、その「後出しジャンケン」と言うか、「釈明を越えた強弁」的な内容に苛立ちを覚えていたのだ。

「この人、このブログを見ているぞ!^^;」 と。

 だから、招待客の中に、田中克彦氏がいると聞いて、その顔を是非、拝みたかったのだ。

 シンポジウムが終わった後、会場前に、軍事史学会副会長の原剛氏(元レンジャー部隊^^)がいたので、

「田中克彦先生がいると聞いたのですが、丁度、その御著書を読んでいたので、サインを頂きたいのですが^^」

 と、フレンドリーに問うた。

 すると、原氏は、気さくに、

「ああ、この後、偕行社で会うことになっているんだけど、もう先に行っちゃったかも知れない」

 と答えてくれた。

 この原氏も魅力的な人物だったが、この方の頭の中では、ノモンハン事件は「敗北」以外の何ものでもない様である。

 そこが、私には不満で、そのことについても、近日書こうと思う。

 とりあえず、一言いっておきたいのは、

「あなたがかつて思っていたノモンハン事件の<敗北>と、現在思うノモンハン事件の<敗北>とはかなりの隔たりがあるのではないか?」

 ・・・だ!

   ◇

 それから、私が好意的に引用させて頂いたノモンハン事件関連の文章を書いた中山隆志氏も登壇していた。

 が、どうも、招待客の田中克彦教授や、ノモンハン事件戦史に詳しい重鎮・三木秀雄教授を前にして、いまいち精彩を欠いていた印象だった。

 ともあれ、

<ノモンハン事件70周年記念シンポジウム「ノモンハン事件と国際情勢」報告・1>

 は、これにて終わる。

                                                        (続く 2009/09/15)

【『ノモンハン : 見下ろす神、地を這う神』 第百十三回】 [ノモンハン考]

☆数日前の産経新聞に、ノモンハン事件についての記事が載ったので転載する。

     《露、大戦の歴史見直しを拒否 「無謬の戦勝国」史観 (2009.8.27 22:50)》

 < 【モスクワ=遠藤良介】ロシアが近隣諸国による第二次大戦の歴史見直し機運に強く反発している。1939年に日本の関東軍とソ連軍が衝突したノモンハン事件について、メドベージェフ大統領は「この勝利の本質を変える捏造(ねつぞう)は容認されない」と強調。欧州での独ソ戦(41~45年)をめぐっても、ソ連をナチス・ドイツと並ぶ「占領者」とみる東欧・バルト諸国と対立を深めている。「欧州の解放者」を自負するロシアは、「無謬の戦勝国」というスターリン史観を国際的影響力のテコとし続けたい思惑だ。
 メドベージェフ大統領は26日、モンゴルの首都ウランバートルで行われた、ノモンハン事件の70周年行事に出席。モンゴルのエルベグドルジ大統領とともにノモンハン事件での司令官、ジューコフ将軍の記念碑に献花した。
 モンゴルでは同事件について「(モンゴルは)日ソ両国の犠牲になった」とする解釈も出ているが、メドベージェフ大統領は事件を日本に対する「(ソ連、モンゴル)共通の勝利」と位置づけ、同じ歴史認識に基づいて友好関係を築くことを訴えた。
 メドベージェフ氏はまた、「(戦闘で)関東軍は壊滅的打撃を受けた」とし、事件は「対ソ開戦しないとの日本の決定に影響を与えた」と指摘。これを受けて「(ソ連は)41年に極東からモスクワに大戦力を移動できた」と述べ、ノモンハン事件での勝利が西部での対独戦勝利につながったとの考えも示した。
 独ソ戦をめぐっては23日、両国が東欧・バルト諸国の勢力圏分割を約した秘密議定書「モロトフ・リッベントロップ協定」も締結70年を迎え、その評価をめぐる議論が再燃している。
 戦後のソ連支配を「新たな占領」とみる東欧・バルト諸国では、「協定はナチス・ドイツのポーランド攻撃を可能にし、第二次大戦の原因となった」との認識が主流だ。23日にはバルト三国首脳が「20世紀の2つの全体主義(ナチスとソ連)についての誠実な評価」を欧州連合(EU)に求める宣言に署名した。
 他方、ロシアでは、特務機関の対外情報局(SVR)が「協定は当時の状況において可能な唯一の防衛策だった」との公式見解を発表。当時の英国やフランスがソ連との対独共闘を渋ったことにその責任を帰した。
 ロシアは今年5月、治安・特務系省庁の代表者らを中心とする大統領直属の「反歴史捏造委員会」を創設し、国内外の非官製史観を封じる意思を鮮明にしている。   >

 このような「大雑把な地図^^;」が記事に付されていた。

     産経記事のノモンハン地図.jpg


   ◇

 ・・・ロシアも相変らずですな。

 あんたらの前身であるソビエト連邦の機密文書の数々から、あんたらが、関東軍に倍する壊滅的打撃を受けていた事実が明らかにされたんだぞ。

 もっとも、それはノモンハン事件当時の「事実」でもあった。

 だからこそ、70年前のノモンハン事件の停戦交渉で、東郷茂徳駐ソ大使(後に外務大臣)は、ロシア側相手に、有利に交渉を進められたのだよ。

 その後、日本のメディアにおいても、ノモンハン事件は歪められていったのだが・・・。

   ◇

 また、同内容の記事が、時事通信でも出されているが、その中にこのような一文があった。

     >>『ノモンハン事件(ロシア側呼称「ハルハ河事件」)』

 ロシアでも、「○○事件」扱いなのであろうか?

 外蒙古では、「ハルヒンゴール(ハルハ河戦争)」と呼ばれている。

                                                            (2009/08/31)

【『ノモンハン : 見下ろす神、地を這う神』 第百十二回】 [ノモンハン考]

☆・・・『ノモンハン:70年前の記録・6月 ②』

 今回も、『ノモンハン美談録』より。

     *     *

   ◇六月二十四日

 四時頃戦車多数を有する敵大部隊将軍廟を攻撃し来る、我が方これを撃退、午後に至り砲、騎、戦車約三百襲撃来り、我が方一時苦戦に陥るも国軍騎兵の迂廻側面攻撃により大混乱に陥り一時間にして遺走す。我が方損害軽微、戦車十両を鹵獲す。

 阿穆古朗南方ハルハ河畔上空に、八時三十分ソ連機約六十機襲撃し来る、我が航空隊これを遊撃し、十二機を撃墜、残余をタムスク方面に遁走せしめ、全機無事帰還す。

 ボイル湖附近上空を哨戒中の我機は十九時頃、敵и十六型十四機を発見、直にこれを攻撃三機を撃墜す。

   ◇六月二十六日

 甘珠爾廟南方二十粁の上空を哨戒中の我が三機は十七時頃ボイル湖畔ツアンガンオボー上空に於て敵機約四十機の大編隊陣に突入、約三十分に亙る空中戦の結果十六期を撃墜。

   ◇六月二十七日

 払暁外蒙ソ連空軍のи十五型、十六型機約二百機の大編隊ボイル湖方面より襲来、わが戦闘機隊はこれを遊撃、約三十分に亙り交戦、敵機九十八機を確実に撃退(其他稍確実なるもの六機)更にタムスク、マダツトのソ連空軍、大挙襲来し来る企図あるを探知し、わが航空隊は機先を制し、断乎自衛権を発動、これ等外蒙ソ連軍飛行根據地を空襲撃滅すべく、大空襲を決行、敵約三十機を爆破炎上せしめ完膚なき迄に敵空軍根據地を、壊滅す。本日の戦闘に我方帰還せざるもの三機。

     *     *

 ・・・「断乎自衛権を発動」ってのが、堪らないですな。

 しかし、ソ連軍も、数だけ集め、二百機の大編隊を展開させても、その技術面や精神面での習熟が全くなされてないので、「入れ食い」で撃墜されていく様がよく窺える。

          ノモンハンの空.jpg
           こちらは、軍民航空を描いた名作小説です。

 井沢元彦などは、旧日本軍の「員数合わせの愚行」をよく語りますが、この頃の日本軍は、かろうじて、粒揃いの「戦士」を育成していたようです。

 話変わりますが、私は、ここ数年、仕事で、現場の責任者を任されることが多いのですが、とかく、会社の上層部は「員数合わせ」をしてこと足りると考え、ボケナスを現場に送り込んできて、そこで「こちらの仕事はお終い」とすることが非常に多く、私は白髪を増やしています。

 そこには、「間接的生産(=社員教育)」の概念が欠落しているのです。

 ・・・井沢氏の主張の文法に沿って考えれば、そもそも、このノモンハンを契機に、軍人の相対的な劣化がはじまったのかもしれません(司馬遼太郎も、「日本人の精神性の変質の境」をこの時代に置いている)。

 そして、現在、終身雇用制の崩壊とともに、現場をリードする「叩き上げ」の現場社員(戦士)が姿を消していき、日本の会社制度は「敗戦」に向かって行くのかもしれません。

                                                         (2009/07/28)
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【『ノモンハン : 見下ろす神、地を這う神』 第百十一回】 [ノモンハン考]

☆・・・『ノモンハン:70年前の記録・6月 ①』

 今回も、『ノモンハン美談録』より。

     *     *

   ◇六月十五日

 五月下旬の徹底的敗北にもかかはらず、外蒙ソ連軍は、再び将軍廟及びノムトソーリン附近に進出し来り満軍の警備隊と交戦す。

   ◇六月十七日

 六時頃ソ連機十数機ハロンアルシヤンに飛来盲爆、又アムクロ上空に飛来したるи十六型機は不法にも旭日の標識を以て飛来す。

   ◇六月十八日

 六時頃敵機и十六型機十六、七機甘珠爾廟、阿穆古朗附近に襲来、機上掃射及び焼夷弾を投下満軍のガソリン缶糧秣に若干の損傷を興ふ。

   ◇六月十九日

 十三時三十分敵機十二、三機編隊、ハルハ廟を空襲、十六時及び十七時敵機十数機チヤガンウルオボーに於て満軍を空襲軍馬その他に若干の損傷を興ふ。一方ソ蒙軍は戦車装甲自動車等の機械化大部隊約一千を以てウアガンオボー夜襲し来るも、我が第一線部隊によつて二十一日に至り全く撃退され、ボルンデルス附近に退避、満軍と対峙するに至る。
 満洲国政府「この上は実力を以て断乎国境線外に反撃の用意」ある旨厳重抗議を發し外蒙側の猛省を促す。

   ◇六月二十日

 十時頃ボルンデルス附近に於て外蒙ソ軍の装甲自動車十輌によつて我が斥候包囲攻撃を受く。我が方肉弾戦を以てこれに応戦し弾薬満載のトラツク一輌を捕獲す。

   ◇六月二十一日

 二十一時頃外蒙ソ軍の戦車二十輌、兵力三百ツアガンオボーを攻撃し来る。わが方これと交戦一時間半にしてボルンデルス方面に撃退す。
 十一時頃、敵機九機甘珠爾廟附近にし越境来るも我方に損害なし。

   ◇六月二十二日

 十六時十五分及び十七時二十分の二回に亙りソ連戦闘機и十五、十六型機六十機及び百機の編隊を以て甘珠爾廟の上空に越境飛来、これに対し我航空隊十八機を以て遊撃し、その五十六機を撃墜す。我方の損害僅かに四機。

   ◇六月二十三日(ちょうど70年前!)

 ボイル湖上空に偵察に飛来せる敵機五機を駆逐、一機を撃墜。

     *     *

 ・・・<第一次ノモンハン事件>が終息し、さて、今回の<第二次ノモンハン事件>が戦端を開くまでに、二週間を経ている。

 この二週間に、かなりのソ連の戦力が、シベリア鉄道+陸路満蒙国境に終結させられていた。

 二週間とは、その配備に充分な期間ではあった。

 情報は、関東軍の司令部には入ってきていたのである。

 だが、果たして、その情報の内容を、参謀本部はどう捉えていたか?

 その答えは、今は出せない。

 だけれども、第23師団師団長の小松原道太郎中将は、、ロシア駐在武官の経歴をもっていて、ロシア語にも通じ、日本陸軍有数のロシア通として名高かったのだが・・・。

 ・・・『飛来したるи十六型機は不法にも旭日の標識を以て飛来す』。

 不逞のやからである。

                       И-16.jpg

 こちらのサイトで写真を拾いました。

 解説やスペックも併せてどうぞ^^

                       I-16 (航空機)(クリック!)

 ・・・『満洲国政府「この上は実力を以て断乎国境線外に反撃の用意」ある旨厳重抗議を發し外蒙側の猛省を促す。』。

 後世言われるような関東軍の強引振りはなく、出来る限り専守防衛に徹し、外交努力で解決を図ろうとする姿勢が窺える。

                                                    (2009/06/23)

【『ノモンハン : 見下ろす神、地を這う神』 第百十回】 [ノモンハン考]

☆・・・『ノモンハン:70年前の記録・5月 ③』

 今回も、『ノモンハン美談録』より。

     *     *

   ◇五月二十七日

 十九時頃敵は執拗にも大型機四機、小型機一機の編隊を持つてノモンハン北方西四十粁のシオロオボー附近より越境、満領深く侵入する一方、ホルステン河上空よりも約十機越境、相呼応して挑戦し来る。我軍数機を以て応戦、ホルステン河上空に於て約十分間に亙り猛烈なる空中戦を展開、и十六型九機を撃墜し徹底的打撃を興ふ。

   ◇五月二十七日

 二十六日より行動を起したる日満軍は、払暁を期して疾風迅雷奇襲作戦を以て越境外蒙軍に鉄槌を加ふ、即ちソ連機械化歩兵約千、外蒙騎兵約千、戦車、装甲自動車数十輌及び砲数十門(十五榴を含む)合計約二千の敵に対し、皇軍はバルシヤガル高地方面より、満軍はホルステン河南岸地区より敵の退路を遮断、十四時三十分頃に至り敵に壊滅的打撃を興ふ。一方我空軍は極めて少数を以て、九時頃、五機編隊を以て越境し来りたるソ連機全機を撃墜。十時十分には二十機編隊の内七機を屠り、続いて大挙七十余機を以て越境襲撃し来たりたる敵機に対し、その三十機を撃墜、撃墜総数四十二機となる。わが方一機を失ふも、搭乗者は落下傘に依り満領内に着陸無事帰還、斯くて外蒙国境の空は漸く平静に帰す。

   ◇五月二十九日

 残敵の掃討を継続。満州国政府外蒙政府に不法行為の即時停止。国境の原状回復を再度厳重要求す。

   ◇五月三十日

 夜に至り敵が最後の拠点たる渡河点東南方高地に対し夜襲を敢行、三十一日払暁にかけて追撃戦に移り、遂に敵を完全に国境線外に撃退す。不幸この戦闘に後方遮断の任務を帯びたる我が東部隊は隊長以下を失ふ。
 斯くて二旬に渡る交戦も、わが軍の圧倒的勝利に国境線も暫時の静寂を取戻す。

   ◇五月三十一日

 山縣部隊、東部隊等各部隊は兵力の集結を終る。尚我空軍は執拗なる外蒙砲兵陣地に対し果敢なる反復爆撃を敢行、これを沈黙せしむ。

     *     *

 序盤戦の終わりである。

 ノモンハン戦において、文中に部隊名の出ている<東支隊>の全滅は、戦後に語られることになった「ノモンハンの悲劇」の最初の出来事とされることが多い。

 この5月31日をもって、<第一次ノモンハン事件>は終息する。

 しかし、近年のノモンハン事件の、ソ連側資料流出による事実の「再発見」は、「ノモンハンの悲劇」のフィクション演出者の半藤一利をして、「<第一次ノモンハン事件>は勝利であった」と言わすに至る。

 しかし、そもそも、ノモンハン事件直後に出版された、上記引用の書籍などは、既に、素直に、日本の勝利を記している。

 何故、戦後の日本は、素直に、ノモンハンの事実を見ることが出来なかったのか?

 簡単に言うと、「東京裁判」と「日教組教育」の帰結であるが、ここでは、それについては、まだ書かない。

 また、特筆すべきは、「機械化歩兵」という言葉・・・、何とも「ターミネーター」みたいに聞こえるが、俗に、ノモンハンの日本軍は、「ソ連の最先端の機械化部隊の存在を認識もせずに敗北した」と言われたものだが、こうして「機械化歩兵」という言葉を使っていることで分かるように、全くもって認識していたのである。

 それから、ノモンハンを語るときに、問題視される、辻政信参謀が起草した「満ソ国境紛争処理要綱(関作命第1488号)」がある。

 その内容は、簡単に言うと、

  1.侵さず侵さしめざることを満州防衛の根本とする。
  2.万一侵されたら機を失せず膺懲する。これがため一時ソ連領に進入するもやむを得ない。
  3.国境線の不明確地域では、紛争防止及び部隊行動を容易にするため自主的に国境線を認定し明示する。
  4.国境守備の第一線部隊は積極果敢に行動し、その結果の事態収拾処理は上級司令部の任務とする。

 であるのだが、「3」の解釈は俄に難しいが、他の項目においては、何が問題とされるのか分からない。

 いや、私はわかる。

 「2」が、特定アジア(支那/北鮮/南鮮)に後押しされている「日教組史観」、もしくは、退くに退けない連合国側の「東京裁判史観」に覆われた戦後日本社会では禁忌されたからだ。

 特に、「一時ソ連(他国)領に進入するもやむを得ない」の箇所である。

 おそらく、世界中のどこも、現在、日本が他国を「侵略」するとは思っていないのだ。

 しかし、日本を萎縮させておけば国益になると考えている特定アジア(支那/北鮮/南鮮)は、そういった「縛り」を日教組に貫徹させ、その教育を受けた日本の子供たちに、当時の常識が「間違い」であったと思わせるのだ。

 このことについても、そのうちじっくり語る。

 ノモンハン事件の「事実」を語るということは、日教組の呪縛を打破することでもある。

 ・・・「尚我空軍は執拗なる外蒙砲兵陣地に対し果敢なる反復爆撃を敢行」は、もちろん、敵領内で行なわれている。

 当然のことだ。

 元を断たなくては、無垢なるこちらに血が流れ出る。

     *     *
   
《麻生首相、敵基地攻撃論に「憲法で認める自衛の範囲」(2009/05/28 13:23)》
 [麻生太郎首相は28日午前の参院予算委員会で、北朝鮮の核実験に関連し、敵基地攻撃をめぐる議論について言及した。
 麻生首相は「法理的には憲法で認められている自衛の範囲に含まれ可能だ」と明言。そのうえで「現実には敵基地攻撃を目的とした装備体系を自衛隊は保有していない。日米安全保障体制をきちっとした上で、日本の平和と安全を期したい」との認識を示した。]


 真っ当な意見である。

                                                   (2009/06/11)

【『ノモンハン : 見下ろす神、地を這う神』 第百九回】 [ノモンハン考]

☆・・・『ノモンハン:70年前の記録・5月 ②』

 今回も、『ノモンハン美談録』より。

     *     *

   ◇五月十八日

 午前外蒙飛行機一機ハンダガヤ附近に飛来、午後に至つて外蒙騎兵百二、三十アルシヤン方面国境に向ひ進出し来る。これに対し我方は警備を厳にす。
 敵は逐次ノモンハン正面に兵力を増加し、戦闘準備の態勢に移り、自動貨車、戦車等の移動活発となる。

   ◇五月十九日

 ノモンハン附近に越境飛来したりたるソ連機に対し、我が飛行隊は直ちに攻撃、その一機を撃墜。

   ◇五月二十日

 十三時ノロ高地に越境、俄に攻撃態勢を示し来たりたる外蒙兵約五、六十に対し、警備隊は之を反撃し国境線外に撃退す。十九時敵軽爆撃機ノモンハン附近上空に満洲国領を偵察したりたるに依り、我が国境監視際はこれを地上より射撃、その一機を撃墜。

   ◇五月二十一日

 十五時五十分、砲二門、戦車六を有する約三百の敵はノモンハン西南方バルシヤガル前方高地に侵入し、国軍よく応戦二十二日未明これを国境線外撃攘、十九時飛来したる敵機に対し我が一部航空隊は之を追撃しノモンハン南方に二十粁の地点に於てその一機を撃墜。

   ◇五月二十二日

 十三時頃わが三機編隊の戦闘機、ノモンハン西北方国境附近に於て、и十五型三機、и十六型八機よりなる敵編隊群と遭遇、四倍の敵機を相手に奮戦その三機を撃墜、他を国境線外に駆逐す。

   ◇五月二十四日

 八時、加農砲二門を有する外蒙兵約四百、突如バルシヤガル附近に越境侵入し来る。満洲国軍直に之と交戦、二時間の後敵を西南方に撃退。

   ◇五月二十五日

 二時、外蒙兵三百は再び同地点附近に夜襲し来る。国軍直ちにこれを国境線外に撃退、東ウジムチン附近に越境逃亡して来たりたるソ連機、и十五改造型一機を抑留す。

   ◇五月二十六日

 連日に亙るソ連軍に外蒙軍の不法越境に対し日満共同防衛の本義に則り皇軍は断乎敵を撃破せんとの決意を固め戦闘準備を整え、行動を開始す。十七時頃ボイル湖東方より越境の敵機二十機を発見、斎藤曹長機は単機群がる敵編隊軍に突入、猛烈なる空中戦を展開、二機を撃墜、二十一時頃又もノモンハン西北方より三機越境、鈴木中尉機の遊撃に遭ひ一機撃墜他は遁走す。

     *     *

 前半、「一機撃墜」の記述が多いのですが、これ、事実ではない上層部への報告上の「お約束の嘘」のように思えるんだよなあ^^;

 「敵が攻めてきているのに、手をこまねいていたのか!」と上役に怒られるので、記録者に「とりあえず一機撃破にしとけ…」って感じ。

 ・・・しかし、次第に戦闘が激化してきています。

 度重なる、ソ連軍の挑発行為に、関東軍も本腰で動き出しました。

                                                  (2009/05/31)

【『ノモンハン : 見下ろす神、地を這う神』 第百八回】 [ノモンハン考]

☆・・・『ノモンハン:70年前の記録・5月 ①』

 今回は、『ノモンハン美談録』より。

   ◇五月四日

 十二時頃軽機関銃三を有する五十の外蒙兵満蒙国境ボイル湖東方バルシヤガル附近に越境し来り。国境巡察中の我が警察官が六名ほか十六名に不法発砲し来る。我が方直に応戦、反撃約五時間にして国境線外に撃退す。

   ◇五月十一日

 二時半頃重軽機、擲弾筒を有する約八、九十の外蒙兵ノモンハン西南約十五粁附近に再び越境し来り、該方面警備の満軍監視兵に向つて突如不法狙撃し来る、我方七時間に亙る激戦の後、越境外蒙兵をハルハ河以南に撃退国境線を回復す、本戦闘に於て敵遺棄死体五、鹵獲品多数ありたり、我が方損害なし。

   ◇五月十二日

 十時、外蒙兵十一騎ノモンハン西南方シヤリントゴロイ附近に越境し来る。直ちにこれを撃退し、ハルハ河を渡河遁走せしむ、同日十七時、敵騎兵約二百バルシヤガル西方地点に越境侵入し来り、翌十三に至つて西南方ノロ方面に移動を開始す。重軽機、迫撃砲を有す。対岸ソクトスンガイトにトムスク方面より大部隊増援集結、彼我対峙のまま、俄然緊張を呈するに至る。

   ◇五月十三日

 満州国政府、この頻発する外蒙軍の不法越境事件に関し、ウランバートルの外蒙政府チヨイバルサン首相宛に厳重抗議を發し、原状快復と越境外蒙兵の撤退を要求す。

   ◇五月十五日

 外蒙軍の執拗なる不法越境によつて度々戦闘を惹起したるに鑑み、日満共同防衛に任ずる皇軍の一隊は国軍と連絡、ノモンハン附近に進出、ハルハ河以東の地点に尚越境せる外蒙兵の国軍に対する不法攻撃に対し午後に至り断固反撃を加へ、猛烈なる追撃戦を展開、これに徹底的打撃を興え国境線外に掃蕩す。

   ◇

 チクチクと、ソ連が外蒙軍を用いて、攻め込んでくる姿が描かれています。

 こうして、「写経」を行なっていると、そこには、ソ連の思惑(工作)が見えてくるような気がしてきます。

 ・・・そう、こうして国境での小競り合いの背後で、ソ連は軍備を満蒙国境ノモンハン周辺に終結準備させている。

 つまり、この、外蒙兵の挑発行為こそ、既に、ソ連の作戦のうちだというのだ。

 証拠はない。

 未来への保留事項だが、ソ連の方の機密書類を紐解けば、その「イの一番」に載っている事項だろう。

                                                     (2009/05/27)

【『ノモンハン : 見下ろす神、地を這う神』 第百七回】 [ノモンハン考]

☆いま、以下の本を読んでいます。

     090513_190335[1] (2).jpg
       『高射砲戦記 [ノモンハン事件] (田中新三郎著・南北書園発行)』

 昭和17年の発行です。

 兵頭二十八軍師の講演の後に、横浜の<軍学堂>古書店で買いました。

 感想は近日。

 ・・・高射砲の弾丸は、敵機を撃破しまくるのである。

 ・・・では、『ノモンハン :地を這う神々の境地』です。

   ◇   ◇

 第四十一柱 陸軍中尉 <原田 浩>

    「昏睡状態の電話連絡」

 とうとう敵陣地を占領した。

 それまでの苦戦難戦は語るも愚かである。奪取した敵の壕内には、敵の屍骸に交つて、部隊長馬場少佐が、胸部貫通銃創の痛手に、昏々として横たはつてゐる。そのそばに、原田浩中尉が昏睡状態に陥つてゐる。

 やや離れた壕の突角には、占領をものがたる日章旗がはためいてゐるが、その下には少数の兵士が護つてゐる。

 重砲弾は頭の上を、その日章旗の上を、ひつきりなしに飛びちがつて、もの凄い音とうねりを立ててゐる。

 敵の威声が聞える。

 原田中尉が昏睡からさめた。と   

「この状態を本部に報告しなければならぬ」

 咄嗟に思ひついてそばにある電話機を取つた。

「隊本部……」 きれぎれな言葉、高まり低まる声、

「第一線は取れた。しかし……すぐ前は敵だ」 ややもすると、手足がしびれたやうになつて、顔が茫としてそのまま打伏さうとする、目を見張つて、息をのみこんで力を入れる。

「日の丸を目標に……目標にうつてくれ。俺達は弾丸をかぶつてもいい」

 切れ切れに押出すやうな声は、荒い呼吸に変る。

 遥か隊本部で受話器を握つた河添中尉は、その声と呼吸で、原田中尉の重傷を知つた。

「日の丸を目標に」といひ「俺達は弾丸をかぶつてもいい」といふ中尉の心根を思ふと胸の中がいつぱいになつた。

 直に後続部隊が出動して来た。そして附近一帯は確保された。

 これも人間業とも思はれない原田中尉の電話連絡の殊勲からであつた。

   ◇

 ここで言われる「日の丸を目標に」の日章旗は、いわゆる「軍旗」とは異なるのだろうか?

 軍旗は「旭日旗」で、目印としては「日章旗」が用いられたのか?

                                                 (2009/05/13)
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