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【 『ノモンハン : 見下ろす神、地を這う神』 第五十三回 】 [ノモンハン考]

【 『ノモンハン : 見下ろす神、地を這う神』 第五十三回 】

▼≪関東軍と関東州と満州と・・・(その5)≫

再び、『Wikipedia』での流れを参考にさせて頂く。
1911年、辛亥革命の勃発に伴い、東三省(現在の遼寧省・吉林省・黒龍江省。満州の同義といえる)でも多くの革命運動が起こる。
その頃、東三省の統治者に返り咲いていた趙爾巽は、各地の革命運動の弾圧に成功する。
張作霖もよく働き、清朝が滅び、中華民国となった段においても、その地位に揺らぎはなく、中将・陸軍師団長の位を得た。

辛亥革命は、清朝の終わりを為し、中華民国の建国に至る革命である。
末期、諸外国の圧力を受け、清朝社会は混乱状態であった。
そんな折、四川省で中国民間資本鉄道の国有化反対運動が起こって、
それに同調した孫文率いる中国革命同盟会が、湖北省・武昌で反乱を起こす。
すると、見る間に、十四の省が清朝からの独立を宣言した。
各省の代表が南京に集まり、1912年初頭、孫文を臨時大総統に中華民国臨時政府を成立、同年2月には宣統帝を退位させる。
清朝は袁世凱をして討伐に赴かせたが、袁は新政権と交渉し、清帝を退位させ、孫文に代わって、中華民国大総統に就任した。

いや、袁世凱、凄い^^
この人物を調べたら、かなり豪快な伝説が紐解けそうだ・・・。

更に、その後、袁は、孫文らとの約束を無視し、宋教仁(国民党の創始者が一人)暗殺、臨時約法(アジア最初の共和国としての基本法)廃止、一時は皇帝になるなど反民主的・専制的な政治をしたために、孫文らの目指した革命の理想は露と消えた・・・。

・・・いや、今、焼酎やりながら、書いているのだが、宋教仁と言う人物が、私と同じ大学に通っていたことを知って、酔っているせいか、メチャ感動している^^
私は、愛校心などなかったはずなのになあ^^;

▽東三省の趙爾巽や張作霖が、旧政府(清朝)の側に立って行動していたにも関わらず、その地位に揺るぎなかったことについては(多くの革命家を惨殺したのに)、袁世凱の北洋軍閥下にいたことが大きいだろう。

趙爾巽の次に奉天都督に着いたのが段芝貴であった。
しかし、段芝貴はこの地との縁が浅く、この頃には、この地での張作霖の権威が大きくなっていた。
袁の懐刀である北洋軍、その張作霖派閥の占めるパーセンテージが抜き差しならなくなっていた。
それは、袁世凱をして、張を脅威と感じさせるまでになっていた。
袁は、張に「子爵」の称号を与えさせした。

1916年、袁世凱は皇帝位奪取に失敗、失意のうちに死去した。
張作霖は、これをチャンスとし、策略を巡らし、段芝貴を失脚させ、奉天省の支配者となる。
1919年には、黒龍江省・吉林省も含めた東三省を支配圏に置いた。
彼の率いる軍閥は、本拠地・奉天の名をとって<奉天派>とされた。

▽1920年、中華民国にて、安直戦争が起こる。
これは北洋軍閥同士の戦争である。
安直戦争の「安」は、安徽派を意味する。安徽は、段芝貴の出身省であるから、その系統の軍閥なのかなあ、分からない。
「直」は、直隷派を意味する。直隷とは、袁世凱が「直隷総督兼北洋大臣」の地位にいたことから分かるように、中央寄りの派で、「直隷省・河南省・山東省」三省の総督に従うグループである。
張作霖率いる奉天派は、この戦争においては直隷派側につき、安徽派を殲滅する。

この頃から、関東軍の影が、張作霖をはじめとする軍閥首領の背後に見え隠れする・・・。

 (追記)
後から調べるに、安徽派は、やはり、失脚した段芝貴のグループであった。
しかし、驚くことに、とあるサイトでは、こんな表現があった。
 『・・・段祺瑞の直隷派と安徽派の戦争(安直戦争)が始まり・・・』
おいおい! 志村~! 逆だよ逆!!

 (追記・2)
  ・・・!!!
いや、ちょっと待てよ・・・。段芝貴と段祺瑞・・・、名前が全然違うじゃないか!!^^;
でもなあ、どちらも安徽省出身なんだよなあ。まあ、偶然なのだろう。
段祺瑞が安徽派で、安直戦争に敗れて下野したのは確かなのだが・・・、・・・。
こういう時、師匠がいない身は辛い・・・(涙)
             (続く 2006/11/19)


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