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【『ノモンハン : 見下ろす神、地を這う神』 第五十六回】 [ノモンハン考]

【『ノモンハン : 見下ろす神、地を這う神』 第五十六回】

▼≪関東軍と関東州と満州と・・・(その8)≫

1922年、呉佩孚の融和策は、黎元洪の大総統復活を生んだ。
だが、呉佩孚と直隷派を引っ張ってきた曹○(金偏に昆)は、自分自身が表舞台で活躍することを望む。
1923年、強引にに黎元洪を辞任させ、曹○(金偏に昆)自身が大総統に就任した。
曹○(金偏に昆)の、飾り立てることもしない露骨なる権力欲に対し、諸軍閥は<反直同盟>を結んだ。
1924年、その有力<反直>軍閥・奉天派との戦が起こる(第二次奉直戦争)。

1924年10月、呉佩孚と軍は北上しつつ、奉天の張作霖を攻めるべく、直隷派の第三軍司令・馮玉祥に関内本土と関外熱河の境界(要するに、万里の長城の一部)にある古北口へ軍を進めるように命じた。
(余談、今、古北口について検索したら、ヤフーで、戦前の古北口の絵ハガキがオークションされていました! ほ、欲しい^^;)
これは、張作霖の側面からの攻撃に対して、北方の通路を確保するのが目的だった。
だが馮玉祥は、謀反を起こした。
配下の軍勢を引き連れ、北京に舞い戻り、大総統の宮殿を包囲した。
曹○(金偏に昆)に国会を解散させ、大総統令において司令官の呉佩孚の全ての権限を剥奪、内戦の即時停止・新内閣の編成を迫った。
そして、全ての要求が充たされると、曹○(金偏に昆)に大総統を辞職させ、軟禁した。
呉佩孚は、北京/天津間での戦闘で破れ、海路にて揚子江まで落ち延びるのだった。
かくして、北京政府の実権は奉天派へと移る。

▽さて、上記において、第二次奉直戦争における勝利の要因を「直隷派の有力者・馮玉祥の裏切り」と記した。
もう一つの要因を記しておく。
・・・関東軍である。
1922年の第一次奉直戦争においても、関東軍は、張作霖の支援を主張していたのである。
しかし、この頃の関東軍は、関東軍を生み出した外務側(内田康哉外相)の<不干渉政策>を打ち破れるほどの力を持っていなかった。
だが、二年後の第二次奉直戦争においては、陸軍独自で、大陸における秘密工作を行う自信と実力を持てるまでになっていた。
この頃、既に『幣原外交』で知られる幣原喜重郎外相の<協調外交(不干渉政策)>が広まってもいたのだが・・・。

『幣原外交』は、1921年に行われたワシントン会議で結ばれた「九ヵ国条約」に則したものであった。
それは、第一次大戦後の、中国におけるルールの確認を意味した。
内容は、簡単に言うと、中国の「主権尊重」「門戸開放」「機会均等」だ。
幣原外交は、大戦後のパリ講和会議から九カ国条約に至るパリーワシントン平和体制に準拠し、中国に対し<不干渉主義>で徹した(・・・徹せたのか?)。

第二次奉直戦争を眺め、幣原は至って満足していた。
馮玉祥のクーデターにより、直隷派は崩壊する。
荒れる大陸・・・。
あらゆる機構(関東軍・外務の出先官憲・ほとんど全ての閣僚)が張作霖援助による日本の権益確保を主張した。
幣原はひとり、大陸への不干渉政策を徹底させていた(させているつもりだった)。

しかし、そこには、既に、関東軍の暗躍があった・・・。

・・・で、関東軍の暗躍は次回に置いておく^^;

▼さて、張作霖と馮玉祥(と仲間のようにして書くと、閲覧者の方は意表を突かれるかも知れないが、この二人の共闘の陰に、関東軍がいるのである)が、ともかくの諸派の反感を避けるために立てた大総統が、段祺瑞である。
1924年末のことで、これまた、「返り咲き」である。
しかし、この頃の中国は、権威失墜後の粛清はないのだろうか?
私など、「民主主義万歳やね^^」などと思ってしまうのだ。
まあ、当然ながら、民主主義などではなく、権力を失った人物に、中国の群雄は興味を急速に失ってしまうだけなのかも知れない。
そして、どうも、近代中国の歴史の立役者は、権力を手に入れると、一旦、ナンバー2の座に落ち着いて様子を見る傾向がある。 どこからか、「無力な実力者」を連れてくるのである^^;
例外のパーソナリティーは、曹○(金偏に昆)であり、
そして、この後の、張作霖である。
・・・その習いは、【排除】を受けることになる、にある。
                 (2007/01/15)


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