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【『ノモンハン : 見下ろす神、地を這う神』 第八十七回】 [ノモンハン考]

☆では、『ノモンハン :地を這う神々の境地』です。

   ◇   ◇

 第二十二柱 陸軍衛生伍長 <飯田鶴雄>

    「不屈な戦場の天使」

「痛いか。痛いなら助かる。安心しろ。すぐだ、もうすぐ終る。じつと寝てゐりやア自然に血は止るからな」

 負傷兵に元気をつけるやう、絶えず励ましながら、飯田衛生上等兵は、次々に仮包帯を巻いてやるのだつた。激戦の最中である。弾丸は遠慮なく飛んで来る。幾人目かの仮包帯を終へた時、一弾は音もなく飛来して、この勇敢な衛生兵の胸をも一気に貫いた。

「ううむ」と、気丈な彼も、危く前に倒れさうになつたが、漸く堪へた。血潮は胸を、はや眞赤に染めてゐる。

「飯田、寝ろ。ちよつと寝ろ。俺が今度は仮包帯をしてやる」

 戦友の一人が駆け寄ると、

「有難う。だが、俺のは貫通だ。胸の貫通に少しばかりの包帯をしても、とても血止めにはならん。これ位の傷ぢや、まだ死にもすまい。ちよつと行つて来る。まだあの凹地には、負傷者がゐるらしい」

 そんなことを云ひながら、いきなり歩いて行くのである。それでも、可なり苦しいと見え、左手で右胸の傷口を押さへつつ行く。その気丈さには、流石の戦友達も舌を巻いてしまつた。

「いくら毎日出血やら負傷やらの手当に馴れてゐても、よくまああんなに平気でゐられたものだ」 さういつて、あきれるのも道理、遂に彼は胸部貫通銃創に、手当も受けず、その儘頑張り通してしまつた。勿論、顔色は、蒼白になつてゐたが、

「これだけ血が出りやあ、青ざめもするだらうぢやないか」

 と、笑って相手にしない。

 この豪胆が、傷口を塞がせたか、翌日は少し出血も減つたらしい。

 又一日経て、八月三十日のことである。部隊は、敵の猛烈な逆襲の目標となり、陣前で、幾度か白兵戦が展開され、その都度敵を撃退はしたが、負傷者の数も沢山出た。飯田衛生上等兵は、傷の為、右腕が不自由になつてゐるのにも拘はらず、この激戦の陣地を駆け回つて、しきりに負傷者の手当を続けてゐた。隊長が彼の負傷を知つて後退を勧めるが、頑としてきかない。

「若し自分が後退すれば、部隊には衛生兵が一人も居ないことになります」

 といふのが彼の答である。

 幾度目かの白兵戦の後だつた。陣前に倒れてゐる戦友の姿を、壕から顔を出して見てゐた彼は、

「あツ、まだ生きてゐる」

 呟くように云ふと、いきなり壕から匐ひ出して行つた。不自由な右腕右胸をかばつて、左を下にし、左手で匐って行く。漸く全身紅に染つて倒れてゐる戦友に近づくと、その足を持つて、そろりそろりと引張つて来始めた。

 と、この時、突如として、潜入近迫して来た敵兵の投げた手榴弾が、彼の傍らに炸裂したのだ。全身に爆創を浴びて、流石の彼も、戦友達の目前で、あつと思ふ瞬間倒されてしまつた。

 ややあつて、その遺骸を収容した戦友達は、この戦場の天使ともいふべき飯田衛生上等兵の壮烈な死に、熱い感激の涙を注いだのである。

   ◇   ◇

・・・八月三十日は、まさに、ノモンハン事件の最終局面であった。

九月に入ると、戦場は、双方、膠着状態に入り、十五日に停戦協定が結ばれる。

                                                         (2008/09/06)
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