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【『ノモンハン : 見下ろす神、地を這う神』 第九十一回】 [ノモンハン考]

☆では、『ノモンハン :地を這う神々の境地』です。

   ◇   ◇

 第二十五柱 陸軍伍長 <猪狩 功>

    「俺の屍を越えて行けツ」

 七月七日、その日はドンヨリと雲が垂れて、生温い風が一日中同じ方向から吹いてゐた。一瞬夏草に覆はれたバルシヤガル高地に陣取つて十数倍の敵と対峙してゐた部隊は、終日敵の猛射をうけながら、満を持して動かず、ひたすら夜の来るのを待つた。この敵の堅陣を破るには、夜襲よりほかはないのだ。

 つひに夜が来た。星明りすら見えぬ闇夜だ。いよいよ進撃の火蓋は切つて落された。わが夜襲こそ、敵の最も怖れるものだ。戦々恐々として夜を迎へた敵は、忽ち十五糎その他の火砲を集中して、わが前進をさへぎらうとする一方、待機した戦車群は一斉に火を吐き出した。見るも物凄い銃砲弾の嵐   部隊はつひにこの戦車群のために前進を一時中止せねばならなくなつた。まづこの戦車をやツつけておかなくては、前の陣地は取れない。小隊長は意を決して分隊長猪狩上等兵を呼んだ。

「猪狩分隊、敵戦車群を肉迫攻撃せよ!」 悲壮な命令だつた。わづか一分隊をもつて数十両の戦車群への肉迫攻撃。

 だが、さすが小隊長に見込まれただけあつて、豪勇果敢の猪狩分隊長はビクともしなかつた。演習のときと少しも変らぬ沈着さで、直ちに分隊全員を集め、任務を告げ知らせるとともに、攻撃方法を十分に打合せた。

「さあ行かう。みんな頑張れ! 俺が倒れたら、俺の屍を越えて行けツ!」

 決然命令を下し終ると、自分も地雷、火焔瓶をひつさげ、真先に弾雨の中にとびだした。隊員も遅れじ突つ走る。

 やがて第一の戦車へ忍び寄つた猪狩上等兵は、飛鳥の如く身を踊らして無限軌道にとびつきざま、砲塔の上から火焔瓶をたたきつけた。

 忽ちパツと燃え上る戦車。

 してやつたりとばかり、上等兵はすぐさま第二の戦車に駆けより、それと知つて慌てて逃げようとする戦車の下へ、今度は戦車地雷をさし込んだ。

 轟然たる爆音……さしもの鐵牛もたはいなく破壊されてしまつた。同時に他の数両も、隊員たちによつて次々に破壊され、夜空に炎々たる火を吐いて燃え始めた。

 これに驚いた敵は、周章狼狽、燃えだした僚友の戦車を残したまま一目散に逃げだしてゆく。これを見た友軍は、ワツと喚声をあげて突撃を開始した。

 だがその時、敵戦車が逃げながら盲撃ちに乱射する機関銃弾は、かくや猪狩上等兵の頭と胸をうち貫いた。

「分隊長殿! 小隊は突撃を始めました。大勝利、大勝利ですツ!」 部下が抱き起して叫ぶと、

「うむ……行け!」と、敵の方を指さしたまま壮烈な最期だつた。が、その死は決して無駄ではなかつた。友軍は忽ち相続いて敵陣に殺到し、更に次の陣地へと突撃をつづけて、つひに全軍戦勝の基を開いたのである。

   ◇   ◇

これは、日本軍による<河渡河作戦>での、ハルハ河西岸での出来事だと思われる。

     『俺が倒れたら、俺の屍を越えて行けツ!』

この言い回しは、現在でも使われているが、語源と言うか、言い始めはいつなのだろうか?

何となく、戦国時代チックであるが、意外に、このノモンハンの頃から言い始められたのかも・・・。

「(敵を)叩くッ!!」と言う表現は、日露戦争時に言わはじめた言葉だそうだ(by司馬遼太郎)。

どの将校が言い始めたのかは、私、忘れてしまった^^;

                                                 (2008/10/07)

【『ノモンハン : 見下ろす神、地を這う神』 第九十回】 [ノモンハン考]

☆では、『ノモンハン :地を這う神々の境地』です。

   ◇   ◇

 第二十四柱 陸軍伍長 <岩切 經廣>

    「死の弾薬運搬」

「おい、頭が高いぞ。もつとこごんで歩け!」

 重い弾薬箱を背負つた数名の弾薬運搬隊が、窪地から窪地へと匐ふやうに走つてゆく。先頭に立つて時々振返つては声をかけるのは、弾薬係の岩切上等兵だつた。

 敵は、重砲、野砲、迫撃砲を、さかんに射つてくる。何の遮蔽物もないこの草原では、一寸でも頭を上げると、忽ち敵の射撃目標になつてしまふ。

「さあ、もうぢきだぞ、頑張れ、頑張れツ」 上等兵は、汗ダクダクの部下たちを励ましながら、とある斜面を登りだした。

 一上等兵の身で、弾薬係全部の重責を負つた彼    それだけに彼は、大層細心で、責任観念の人一倍強い兵だつた。

 弾薬運搬員の苦労は、武器をもつて直接敵と戦ふ戦闘員のそれに比べて、決して劣るものではない。むしろ一層危険で骨の折れるやりにくい仕事である。しかも戦闘中の機関銃手に一刻も後顧の憂ひなからしめるやうにしなければならぬ。岩切上等兵の苦心は実に涙ぐましいばかりだつた。

 やがて斜面を登り切つて、稜線の上へ出ると、

「さあ、ここは危険だぞ。俺につづいて、うんと突つ走れ!」

 サツと斜面を駆けおりる。とたんに敵の機関銃がパリパリと射つてきた。

 それでも全員無事に、機関銃のある次の斜面にとりつくと、上等兵は部下を督励して弾薬配分を終つた。

「よし、出発! おれは第三小隊へ持つてゆく」 さう云つて上等兵が斜面を横に匐ひはじめた時である。

 突如、ドカーンと背後に落下炸裂した砲弾の破片が、岩切上等兵の右胸部に命中した。一瞬、「むツ!」とうち伏したが、強気の上等兵は、何をとばかり立上つて駆出さうとした。

 が、立つたかと思ふと、又ドツと崩れるやうに倒れてしまつた。

「岩切、岩切上等兵、しつかり!」 戦友に抱きおこされると、走るやうに手足をもがきながら、

「だ、弾薬……弾薬を早く……」と、続けさまに叫び、叫びながら止めどもなく口から鮮血を吐いた。

「心配するな。弾薬は俺が引受ける。敵はもう退却したぞ!」

 戦友の叫びに、やつと安心したらしく、

「天皇陛下万歳!」と一声高く奉唱すると、又一声、続いて一声、三唱し終るともう息がなかつた。

   ◇   ◇

「最近の若者は情けない」などという言葉をよく聞くが、私は最近、そうではないかも、と思いはじめている。

現代の若者たちも、状況・・・、つまり、時代や社会背景が異なれば、岩切上等兵のような「滅私」の生き方を当然のように出来るのではないかと思っている。

そして、たまに、戦争映画を見ると、卑怯な人物が出てくるが(例えば、『硫黄島からの手紙』の中村獅童がやった役)、ああいった人物と言うのは、現代に生きる私たちの感覚の投影で作られたキャラクターなのではないかと思うのだ。

・・・いや、確証はない。

ちょっと思いついたのだ。

                                                  (2008/09/30)

【『ノモンハン : 見下ろす神、地を這う神』 第八十九回】 [ノモンハン考]

☆仕事中、車で、甲州街道から環七に入ったとき、電柱に、なんか毒々しいポスターが括りつけてあるのを見た。

それには、確かに、「ノモンハン」と記されていた。

見たのは一瞬だが、自分が常に意識している言葉は、現実の情報過多の中であっても浮き上がってくるものだ。

海外を旅していても、食堂で、隣りの席の外人が外国語の会話の中で日本語の単語を使ったとすると、さして意識をしていなくても、すぐに単語が浮き上がってくるのと同じ理屈だ。

甲州街道・環七は、ともに車の行き交いが激しい通りであるが、運転しながら、私は、確かに「ノモンハン」の文字を捉えた。

そこで、車を停めて確認するわけにも行かず、私は、「おそらく、どこかの小劇団が、ノモンハンを題材にした舞台をやるのだろう」と思った。

   ◇   ◇

その後、環七を通った時には、そのポスターはなくなっていた。

気になって、ネットで調べてみた。

すると、どうやら、左翼映画監督の渡辺文樹の映画だったらしい。

どこかの公民館を借りて、自分の新作を上映しようとしていたらしい。

この人、15年ぐらい前から、こういったゲリラ的な上映ばかりしている。

相田みつをタッチで、でも、ベクトルは正反対の「バリゾーゴン」とか書いたポスターを八王子中に貼ってたりしていた。

今回は、9月の初旬に、左翼的な内容の「天皇伝説」「ノモンハン」と言う作品を上映しようとしていたらしい。

それが、上映中止になったらしい。

てゆ~か、どこの公会堂でも、上映中止になっているらしい。

まあ、私の思想的には、抗議した右翼団体や、上映禁止した行政側に「GJ!」の言葉を送りたくもあるのだが、私は、「天皇伝説」はともかく、「ノモンハン」は、正直、見てみたい。

低予算映画でノモンハンの戦場を描くのは難しいと思われるが、体験記を語るようなドキュメント的な作品であれば、少しは、私にとって有益な内容であろうと思えたのだ。

映画「ノモンハン」は、現在、福島で一度、上映されただけだそうだ。

・・・例え、偏った思想の映画であろうとも、見れて、その内容の吟味を出来る体制の世の中であって欲しいものではあるが・・・。

・・・だが、偏った思想による「嘘」の内容であったらば、大問題が生じる。

   ◇   ◇

     (左翼サイトより)
          渡辺文樹監督の映画「天皇伝説」「ノモンハン」の上映妨害について
          「天皇伝説」渡辺文樹監督逮捕事件の真相

リンクさせた上のサイトは、関連リンクも豊富のようですよ^^;

こういった左翼サイトにつきものなのは、自分にとって都合のいい状況においては、どんなに嘘やデマゴギー、誹謗中傷を行なおうとも、「表現の自由」の前にあっては許されると思っていることだ。

・・・天皇批判は行なわれてもしかるべきであろうとも、嘘で塗り固めた内容であった時、それは、取り締まられるべきものと化す。

そして、自分にとって都合の悪い状況においては、どんなに自陣側に不正があろうとも、「基本的人権」を掲げて免除されると思ってやがる。

・・・上記にリンクさせた月刊『創』の編集方針など、正に、それである。

延々と、加害重犯罪者の人権を守り、被害者の尊厳を蔑ろにし続けている。

   ◇   ◇

・・・「ダブル・スタンダード」は、よく批判の対象になるが、私はそうは考えない。

具体的事例の前にあっては、その構成因子の違いで、違う結論を出さねばならない時もある。

しかし、左翼って奴は(もしくは、一部の保守派も)、常に「間違ったダブスタ」を延々と演じている。

個々の具体的事例において、常に間違った選択肢を選び続けている。

それは、近年、徐々に一般社会(常識)との乖離を始めている。

   ◇   ◇

ポスターをここに転載したいのだが、載せているサイトが全て左翼サイトなので、私が拝借しようものならば、このブログを管理している<So-net>に圧力かけて削除しようとすると思うと、メンド臭いので、やめときます。

私は、かつて、数十万のアクセス数を誇っていたブログとホームページを、左翼的な人格の「自称・保守派」の粘着的な裏工作によって消されたことがある。

そういった奴らのやり口は、うざいのである・・・。

                                            (2008/09/22)

【『ノモンハン : 見下ろす神、地を這う神』 第八十八回】 [ノモンハン考]

☆では、『ノモンハン :地を這う神々の境地』です。

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 第二十三柱 陸軍伍長 <伊地知 忠士>

    「気魄で引く引金」

 一時退却した敵は、又もや八両の戦車と装甲車をつらねて正面から逆襲してきた。車軸を流す豪雨のやうに、戦車砲弾、機関銃弾をあびせてくる。

「射てツ、最後まで射てツ!」 分隊を指揮しながら、自分も懸命に射撃してゐた伊地知上等兵が、突然、

「しまつた!」と叫んで倒れた。左大腿部を敵弾が貫通したのだ。が、強気の上等兵は、部下が誰も気づかないうちにすぐ起上がつて、歯を食ひしばりながら射撃をつづけてゐた。

 が、一分とたたない間に、第二弾が左胸部を貫いた。思はず前のめりになつて、がつと口から血を吐いた。その血が胸から腹へと伝はつて、全身血だるまとなつた。

 だが、彼はそれでも屈せずに銃を握つて応戦してゐた。

 戦友の一人が見かねて駆けよつてきた。

「伊地知上等兵、後退しろ」 肩を抱いて連れ戻さうとしたが、上等兵はその手をふり払つて、

「何ツ、俺はこれから戦闘するんだツ!」と、血みどろの手を引金にあてて一発発射した。

 その瞬間、憎むべき敵の第三弾は、照準のためにつぶつてゐた上等兵の左眼に発止と命中した。

「ざんねん!」 さすが鬼をもひしぐ気魄の上等兵も、ノモンハンの華と散つたのである。

   ◇   ◇

大戦時代の記録を読むと、「伊地知」と言う姓の方が度々活躍している。

東京に住んでいる私には、馴染みのない姓である。

明治維新の頃から歴史の表舞台に出てきた薩摩や長州ではメジャーな名字なのでしょうか?

                                                  (2008/09/07)

【『ノモンハン : 見下ろす神、地を這う神』 第八十七回】 [ノモンハン考]

☆では、『ノモンハン :地を這う神々の境地』です。

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 第二十二柱 陸軍衛生伍長 <飯田鶴雄>

    「不屈な戦場の天使」

「痛いか。痛いなら助かる。安心しろ。すぐだ、もうすぐ終る。じつと寝てゐりやア自然に血は止るからな」

 負傷兵に元気をつけるやう、絶えず励ましながら、飯田衛生上等兵は、次々に仮包帯を巻いてやるのだつた。激戦の最中である。弾丸は遠慮なく飛んで来る。幾人目かの仮包帯を終へた時、一弾は音もなく飛来して、この勇敢な衛生兵の胸をも一気に貫いた。

「ううむ」と、気丈な彼も、危く前に倒れさうになつたが、漸く堪へた。血潮は胸を、はや眞赤に染めてゐる。

「飯田、寝ろ。ちよつと寝ろ。俺が今度は仮包帯をしてやる」

 戦友の一人が駆け寄ると、

「有難う。だが、俺のは貫通だ。胸の貫通に少しばかりの包帯をしても、とても血止めにはならん。これ位の傷ぢや、まだ死にもすまい。ちよつと行つて来る。まだあの凹地には、負傷者がゐるらしい」

 そんなことを云ひながら、いきなり歩いて行くのである。それでも、可なり苦しいと見え、左手で右胸の傷口を押さへつつ行く。その気丈さには、流石の戦友達も舌を巻いてしまつた。

「いくら毎日出血やら負傷やらの手当に馴れてゐても、よくまああんなに平気でゐられたものだ」 さういつて、あきれるのも道理、遂に彼は胸部貫通銃創に、手当も受けず、その儘頑張り通してしまつた。勿論、顔色は、蒼白になつてゐたが、

「これだけ血が出りやあ、青ざめもするだらうぢやないか」

 と、笑って相手にしない。

 この豪胆が、傷口を塞がせたか、翌日は少し出血も減つたらしい。

 又一日経て、八月三十日のことである。部隊は、敵の猛烈な逆襲の目標となり、陣前で、幾度か白兵戦が展開され、その都度敵を撃退はしたが、負傷者の数も沢山出た。飯田衛生上等兵は、傷の為、右腕が不自由になつてゐるのにも拘はらず、この激戦の陣地を駆け回つて、しきりに負傷者の手当を続けてゐた。隊長が彼の負傷を知つて後退を勧めるが、頑としてきかない。

「若し自分が後退すれば、部隊には衛生兵が一人も居ないことになります」

 といふのが彼の答である。

 幾度目かの白兵戦の後だつた。陣前に倒れてゐる戦友の姿を、壕から顔を出して見てゐた彼は、

「あツ、まだ生きてゐる」

 呟くように云ふと、いきなり壕から匐ひ出して行つた。不自由な右腕右胸をかばつて、左を下にし、左手で匐って行く。漸く全身紅に染つて倒れてゐる戦友に近づくと、その足を持つて、そろりそろりと引張つて来始めた。

 と、この時、突如として、潜入近迫して来た敵兵の投げた手榴弾が、彼の傍らに炸裂したのだ。全身に爆創を浴びて、流石の彼も、戦友達の目前で、あつと思ふ瞬間倒されてしまつた。

 ややあつて、その遺骸を収容した戦友達は、この戦場の天使ともいふべき飯田衛生上等兵の壮烈な死に、熱い感激の涙を注いだのである。

   ◇   ◇

・・・八月三十日は、まさに、ノモンハン事件の最終局面であった。

九月に入ると、戦場は、双方、膠着状態に入り、十五日に停戦協定が結ばれる。

                                                         (2008/09/06)

【『ノモンハン : 見下ろす神、地を這う神』 第八十六回】  [ノモンハン考]

☆では、『ノモンハン :地を這う神々の境地』です。

   ◇   ◇

 第二十柱   陸軍伍長  <市場 国衛>

 第二十一柱 陸軍一等兵 <山根貞一>

    「肉迫して敵戦車を焼く」

 敵は、わが猛追撃の下に、追はれ追はれて退却を始めた。わが歩兵は、この機を逃すまじと、いよいよ盛んに追撃をする。

 と、この時、敵は一両の戦車を繰出して、その退却部隊の援護に当らせた。歩兵部隊は、それツとばかり、陣を布き、友軍の速射砲の到着を待つた。が、肝腎の速射砲隊は、歩兵の猛前進に、今はずつと遅れてしまつてゐると見え、到底間に合ひさうにない。と、敵戦車は、陣前三百米まで肉迫して来ると、ピタリ停つて、一段と盛んに砲弾、機関銃弾を浴せて来る。こちらが、小銃部隊なのを見ての、猪口才な仕打である。癪にさはるが、地雷攻撃をしようにも、敵が動いてくれないと都合が悪い。地雷は、戦車がその上を通つてくれないと爆発しないからだ。

 かうなると、速射砲が到着する迄は、壕を掘つて隠れてゐるより仕方がないが、それでは、折角の追撃の機を失ひ、まんまと敵を取逃がしてしまふことになる。

 たつた一両の戦車に攻撃を阻まれるとは!

 この時、擲弾筒分隊長の市場上等兵は、山根一等兵から擲弾筒をとると、鮮かに角度をとり、一発ぶつ放した。弾丸は、見事敵戦車の真上に落ち、天蓋が吹飛んだ。戦車は、驚いたらしく、がらがらと後退し始めたが、忽ちガクンと停つて動かない。擱坐したのだ。が、猶も、銃砲火で盛んに抵抗して来る。市場上等兵が、第二弾を用意してゐると、射手の山根一等兵は、

「上等兵殿、撃つのは待つて下さい。弾丸が惜しい。山根が焼いて来ます」

 云ふが早いか、彼は火焔瓶を掴んで駆けだした。

 敵は狼狽へ彼に弾丸を集中したが、あまり急に肉迫して行つたので、一発も当らぬ。山根は、擱坐した戦車に近づくと、いきなりその下へ匐ひ込んでしまつた。これには乗組員も手が出なかつたらしい。

 やがて、後部の機関部からボツと火の手が上つた。敵の乗組員は、火傷を負ひつつ逃れ出て来たが、待つてゐたとばかり、山根一等兵に一撃の下に倒された。と、この時、後方から駆けつけた部隊は、どつとばかりに殺到し、忽ちこの戦車を踏み越え、再び猛追撃は開始されたのであつた。

   ◇   ◇

ノモンハン事件の後半は、日本軍による肉弾攻撃は、ソビエト軍の車輛改良によって、通用しなくなったという「嘘」がまかり通っている。

そもそも、数ヶ月間の間に、戦車に、そんな装甲のヴァージョンアップを図れよう筈がないのである。

ソビエトの戦車装甲は、始終、日本軍の銃弾によって、穴を空けられた。

ただ、ウィークポイントのエンジンの上部には、金網が貼られ、剥き出しであった時よりは、投げつけられた火焔瓶を弾ませて、やや防御に役立ったようだ。

                                                        (2008/08/31)

【『ノモンハン : 見下ろす神、地を這う神』 第八十五回】 [ノモンハン考]

☆では、『ノモンハン :地を這う神々の境地』です。

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 第十九柱   陸軍衛生兵伍長 <今岡 正雄>
 
    「衛生兵の神」

 七月の灼熱した太陽の下、敵陣を目ざして突撃する我が軍は、見渡す限り草と砂、坦々として凹地一つない平原を躍進して行くのであるから、敵弾に倒れる者が続出した。その第一線将兵と行動を共にし、負傷者に假手当をする為に、弾雨の中を駆け廻つてゐた。

 続けざまに、敵銃砲弾が落下し、草原を揺がすやうな爆音があがる。今岡上等兵は、ハツとすると、もうその跡へ駆けつけてゐた。

「おい吉井、森山もやられたか」

 吉井一等兵は肩、森山一等兵は左腕をやられて血達磨となつて倒れてゐた。手早く森山の腕を縛り、血止めを行ふと、続いて吉井を抱き起した。出血多量のために、はや意識を失ひかけてゐる。しまつたと思つたが、

「吉井ツ、吉井つ、元気を出せ、元気を出すんだ」 叫びながら、砲煙渦巻く中にあつて、彼は沈着にも注射器を取出すと、手早くカンフルを一本射した。吉井は、既に答へる力さへ失ひかけてゐたのである。身を以て吉井を庇ひ一分、二分と、その頬に生気を甦るのを待つたが、矢張り駄目だつた。

「吉井、可哀さうな事をした。もう少し俺の来かたが早かつたら、一言ぐらゐ話が出来たかも知れなかつたのに……。その代り、俺の体の蔭で、安らかに息を引き取つてくれよ」

 今岡上等兵の心頭には、機関銃弾もなかつた、砲弾もなかつた。戦友の臨終を見守つて、彼は長いこと、じつと動かなかつたのである。

 それから二十分あまり後であつた。吉井一等兵の倒れた場所から二百米ほど前進した地点で、今岡上等兵は、一戦友の屍に折り重なつたまま、敵砲弾にやられて壮烈無比の戦死を遂げてゐた。その手には、包帯が、しつかと握られた儘であつた。自己の尊い使命に殉じた彼、戦友達は、今なほ「衛生兵の神様だ」と尊敬の念を籠めて、思ひ出話としてゐるのである。

   ◇   ◇

私は、苛酷な現場(例えば、戦場など)のドキュメント番組を見るとき、キャスター以上にカメラマンの大変さを思う。

極限にまで意識しなくてはならない対象が、複数であるからだ。

衛生兵も、兵卒以上に大儀な役割だろう。

敵と味方を、極限まで意識し続けなければならないからだ。

                                                 (2008/08/22)

【『ノモンハン : 見下ろす神、地を這う神』 第八十四回】 [ノモンハン考]

☆私は営業職なので、車で都内を回っている。

今は、夏休みなので、NHKラジオで、「こども電話相談室」みたいのをやっている。

面倒なので、その質問を具体的に書かないが、他愛ないものから、とてつもなく根源的なものまで多くの質問がある^^;

それを、それぞれ専門の先生が、懸命に答えるのだが、子供に「はぁ」とか「はぁ…」とか「はぁ?」とか答えられちゃっていて笑える。

私は、たびたび、この「ノモンハン」シリーズで、閲覧者に向かって質問をしたりする。

すると、いつも、日本随一の軍学者・兵頭二十八氏の門弟MUTIさんが答えてくれる。

もし、兵頭先生自ら私に答えてくれたら、その膨大な専門知識の洪水に、私は、「はぁ」とか「はぁ…」とか「はぁ?」と答えてしまうかもしれないが、

MUTIさんが、素人にまで分かるように、兵頭理論を咀嚼して語ってくれたりする。

ただ、私は、兵頭先生の理論は、時に、あまりにもクール過ぎて、首肯できないときもある。

ともあれ、今回は、MUTIさんからのメールを転載する。

MUTIさん自体は、職種上、その職業をあらわには出来ないが、私など相手にしてくれるのが不思議なほど、地位の高い方である。

引用中の(赤いコメント)は、私の言葉です。

   ◇   ◇

 蘭様。

 「わかりやすい「戦争」」、好調のようですね。
 毎日とはいきませんが、拝見させていただいております。

> 「上等兵」と「一等兵」の違いも、どなたか、お教え下さい^^;

 との事、上等兵が一等兵より一つ上の階級という事はご存じでしょう。
 疑問点は何でしょうか?   ・・・(そ、それです・・・^^;)

> 秋山好古大佐(当時)の率いる支隊が、最強のロシア騎馬隊の
> 猛攻を防ぎ得たのは、数丁の機関銃だったとも言われる
> (数える単位は「丁」でいいのか?^^;)。

 「丁」で問題ありません。(最近の一般国語辞典には、銃を数える際の助数詞の例がないものが多いようですね。)
 大砲だと「門」になります。

> 上記の秋山大佐の時代も、敵は数百倍の機関銃を所有していたのである。

 ちょっと具体的な数は今分かりませんが、これは「?」です。

 満州全体では、日本軍の方が多かったはずです。   ・・・(『坂の上の雲』から読み取った知識です^^;)

 秋山騎兵隊と直接戦った敵部隊のみを比較しての話をされているのかもしれませんが、ちゃんとした資料にあたらず、とりあえずネット検索で出てくるのが以下。

     http://homepage2.nifty.com/kumando/mj/mj050518.html
     http://kamituke.hp.infoseek.co.jp/page167.html

 (大江志乃夫が日本軍の機関銃の「使用法が拙劣」と書いているそうですが、火力が攻撃と防御において果たす役割が認識できていないと思われます。)

 上記を読む際の基礎の説明に、とりあえずなりうるページ

     http://homepage3.nifty.com/sweeper/gun/m_gun/38mg.htm

 (上記、日本軍が日露戦争で使ったホチキス機関銃を三脚使用と思いこんでいる等のミスがありますが。)

 日清・日露の小銃・機関銃に関しては、やはり、兵頭二十八著、

     「有坂銃―日露戦争の本当の勝因」
     「たんたんたたた―機関銃と近代日本」   ・・・(よ、読みたいです、これ!)

 が、まとまった著作としては最高の内容です。しかし、簡単に手に入る本ではありません。

 「正でもって合し、奇でもって勝つ」

 という言葉があります。

 「まず、基本・基盤(組織・装備・法・等)を固め、正攻法で勝てる態勢を作って対決する。そして、(より有利、効果的・効率的に勝つために)奇策・奇襲を用いる」

 という意味になりますでしょうか。

 明治の日本は、なんとか「正」を確保していました。

 産業革命の進展に伴う大量生産と高度機械技術等に遅れた結果、昭和初期の日本では、これが怪しくなるのですが…

 さて、兵頭二十八原作の近著

     「やっぱり有り得なかった南京大虐殺」

 は、読まれましたか?   (・・・買いました。読みました。マンガとしては、正直、最低の出来でした^^;)

 ノモンハンや辻は直接関係ありませんが、当時の「雰囲気」を把握する好著です。

 諸々の事情で作画の技術に問題がある本となってしまいましたが、この原作で、巨匠が映画化していたら、世界映画史に影響を与える名作になったであろうシナリオです。   ・・・(ええ、抑制のあるシナリオでした)

 だいぶ以前、日本軍の砲兵部隊が、接近してきた敵部隊への対処のため、友軍歩兵部隊から護衛されるのは一般的かどうか、質問いただいたことがありました。

 その時、原則自部隊対処、という返答をした事がありました。

 が、旧日本軍の砲兵部隊は、近接戦闘用の火器をあまり持っていないため、敵軍の装備・戦法や状況によって、友軍歩兵の護衛を受けることがしばしばあったようです。

 申し訳ありません。   ・・・(いえいえ。有難う御座いました)

 できれば、またお会いしたいですね。   ・・・(もちろん^ー^)

   ◇   ◇

私が、「買いました。読みました。マンガとしては、正直、最低の出来でした^^;」と書いた作品は以下です・・・。

          兵頭マンガ.jpg

「マンガ読み」としては、この作品は、認めることのできない完成度でした・・・。

                                              (2008/08/20)

【『ノモンハン : 見下ろす神、地を這う神』 第八十三回】 [ノモンハン考]

☆いやはや、最近、なかなかブログ・ランキングの調子が良いです^^v

私の望みは、より多くの方に読んでいただくことなので、嬉しい限りです。

有難う御座います!

では、『ノモンハン :地を這う神々の境地』です。

   ◇   ◇

 第十八柱   陸軍伍長 <稻本 正嘉>
 
    「壮烈! 血の手振り信号」

 敵前五百米、歩兵部隊は、突撃の機を狙つて、砂上にへばりついてゐた。が、顔も挙げられぬ猛烈な敵の銃火である。追撃砲弾と、マキシム重機とが、弾丸の嵐を吹きつける。こいつを沈黙させない限り、突入はさう易々とは出来ない。

 小隊長は、歩兵陣地の後方八十米ばかりのところに伏せてゐる擲弾筒分隊に向つて、

「擲弾筒分隊、敵の追撃砲と、重機とを殲滅せよ」と大きな声で叫んだが、何をいふにも轟音の嵐の真只中だ。それに距離も少しありすぎた。到底命令が届きさうにない。

 それと見るや、連絡係の稻本上等兵は、さつと身を翻すと、擲弾筒分隊に向つて脱兎の如く駆け出した。連続的に馳ると狙はれる。二十米走つては伏せ、機を狙つては又馳る。が、無念、あと二十米ばかりのところで、左の胸を射貫かれ、ばつたり倒れた。苦痛を忍んで匐ふ。忽ちその力は尽きた。

 もう声をあげれば届く。が、その声が出ないのだ。もう駄目だと覚悟するや、

「天皇陛下万歳」と叫んだ。殆ど声にならず、その代り血がどつと咽喉に込み上げて来る。そのまま打伏さうとして、急に、まだ擲弾筒分隊に連絡をとつてゐないことを思出した。しまつたと思ふと、身をごろりと仰向けに横たへたまま、血潮に濡れた両の手を空に向け、手振り信号を始めた。

 擲弾筒分隊では、その手振り信号を読んだ。そして、激しい射撃を開始した。轟然と頭上を飛んで行く擲弾筒の弾丸の唸りを聞きつつ、稻本上等兵は、任務を果し得た安堵の中に、最期の息を静かに引き取つたのである。

   ◇   ◇

・・・すいません。

関係ない話ですいませんが、今、8/17の午後9時過ぎなのですが、また、NHKが「NHKスペシャル」で反日放送をしています。

どこまで本当で、どこまで嘘か分かりません。

  ≪   調査報告 日本軍と阿片

  (NHKホームページより)
 昭和12年(1937年)に勃発した日中戦争―。広大な中国で、日本は最大100万もの兵力を投入し、8年に渡って戦争を続けた。武力による戦闘のみならず、物資の争奪戦、ひいては金融・通貨面でも激しい闘いを繰り広げた。
 「戦争はどのようにして賄われたのかー」。最新の研究や資料の発掘によって、これまで全貌が明らかにされてこなかった中国戦線の「戦争経済」の様々な側面が浮かび上がっている。その一つとして注目されているのが、当時、金と同様の価値があるとされた阿片(アヘン)である。
 19世紀以降、イギリスなど欧州列強は、中国やアジアの国々に阿片を蔓延させ、植民地経営を阿片によって行った。アヘンの国際的規制が強化される中、阿片に“遅れて”乗りだしていった日本。日本の戦争と阿片の関わりは、世界から孤立する大きな要因になっていたことが、国際連盟やアメリカ財務省などの資料によって明らかになってきた。
 また、これまで決定的なものに欠けるとされてきた、陸軍関係の資料も次々に見つかっている。軍中央の下で、大量のアヘンを兵器購入に使っていた事実。関東軍の暴走を阿片が支えていた実態。元軍人たちの証言からも、日本軍が阿片と深く関わっていた知られざる実態が明らかになってきた。
 番組では、日本と中国の戦争を、経済的側面からひもとき、知られざる戦争の実相に迫る。   ≫

だから、なんだよ・・・、と言いたい。

その頃、中国の方では、どんな凄まじいことが行なわれていたか特集してみろよ。

そして、現在の中国辺境で起こっていることも・・・。

北京オリンピックを笠に着て、NHK、やりたい放題である。

                                               (2008/08/17)

【『ノモンハン : 見下ろす神、地を這う神』 第八十二回】 [ノモンハン考]


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               あまり騒がしくなく、大人びた終戦の日の靖国神社でした

私は、ゆっくりと、この「ノモンハン」シリーズが良き方向に導かれることを祈りました。

では、『ノモンハン :地を這う神々の境地』です。

   ◇   ◇

 第十七柱   陸軍伍長 <石田 彦正>
 
    「為し難き臨機応変の活躍」

 八月二十日以来頑敵と激戦を交へてゐた部隊は、遂にこれを撃破、ウズル水西方七五八高地に進出、ここで又優勢な敵を向うに廻した、二十二日払暁のことである。敵は戦車の大群をもつて猛攻して来た、この時肉迫攻撃班長となつて、見事、これを撃退したのが、わが石田伍長である。

 その後間もなく、わが野戦病院が敵戦車に包囲されたといふ急報に接し、その救援のため、石田伍長は、斥候長を命ぜられた。伍長は、直ちに部下二名をつれて出発した。

 だが一行は程なく敵戦車に前途をさへぎられた。あそこに一両、ここに一両と、立ち廻つている怪物、伍長は、三人では却つて眼につくと思つて、

「お前達は此処で待つてをれ! これから先は自分ひとりで行く」と云ひ残して敢然として勇住邁進の決意をした。

 彼は、不安気に見送る部下を後に戦車と戦車の間隙を縫ひ、或は伏し、或は駆け、たくみに敵の目を逃れ遂に目的の野戦病院に駆けつけた。来て見ると、病院内は重傷患者が充満、此処へもし戦車が殺到したら、おそるべき惨事をひき起すことは火を見るよりも明らかだつた。

 一刻も猶予はならぬ。伍長は帰路につきながら、地形、戦車のゐる場所を仔細に観察して、もとの地点に到達、部下と共に帰還した。そして直ちに小隊を誘導して、無事患者を、戦車の包囲網の中から救出したのであつた。かうしたことは、ただ勇気だけでは出来ないのだ。沈着、豪胆、迅速、細密なる知察と、的確なる判断が必要である。実に石田伍長は、これ等を兼ねそなへ臨機応変に活躍したのであつた。

   ◇   ◇

終戦の日に、こうしたヒロイックな戦記を紹介できることは嬉しいです。

私が勝手に判断できないことだが、男ってのは、自分の活躍が語り継がれることに「生きた証」を感じるものだと思うのです。

それが、死してなお残る名声、プライド、<誇り>の一つだと思うのです。

上記のような内容は、アメリカの戦争ドラマ『コンバット』のように、日本でも描かれ続けてほしいものです。

・・・今回も、「ウズル水」と言う淡水湖の名前が出てきますが、ここは、戦場の最後方でもある。

8月22日の時点で、ここにも敵の戦車部隊がやってきているということは、ソビエト軍の包囲網が完成に近づいていることを示しています・・・。

                                                            (2008/08/15)

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